「企画コンペ」⁉

エピソード

城跡の整備等事業とはなにか(Ⅱ)

霞が関の文化庁の控室で、足が震えている若い地方自治体の職員がいる。自前の地域文化財活用の事業説明(プレゼン)をする役人で「ダメだったら地元に帰れない!」と泣きそうな職員もいる。ここに集まった人たちは皆、文化庁が全国の地方自治体に公募した史跡等文化財活用の事業案を競う人達だった。審査方法は国の役人が並ぶ前で活用公開を競う「公開コンペ」だった。

前代未聞のことである。そもそも、国が「歴史文化財の整備等事業活用」について地方自治体に競わせることも、地方自治体職員が独自の整備等事業案をもって「プレゼン」を察せることも初めてのことである。90年代の初めころのことだと記憶している。

史跡特別活用事業とその認可と「企画コンペ」

世にも珍しい行政が行政に向けての「公開コンペ」が文化庁で行われたのは、多くの地方自治体が熱望する国指定等文化財の整備活用等事業採択に向けてのことだった。公募に応募した各地方自治体が、自ら所有する歴史文化財の「整備計画案」でその成否を決めようとするイベントである。

加えて、文化庁ではそのコンペ採択に従来にない事業枠「史跡等活用特別事業」を用意し、今まででは考えられないような「事業内容と事業費枠」のを用意したのである。地方が強く要望し、所有する地域文化財活用のための国庫補助事業について、公開のコンペでその採択を決めようとするものである。

しかし採択される件数はただの四件である。文化庁の少ない予算では、それでも破格であり、そして何より三、四年の実質的な「継続事業」が認められることが地方自治体には魅力となっている。
競合するような仕事など全く経験もない地方自治体の「役人相手」に、「整備計画案」など日常作ったこともない人達に、独自の事業内容のプレゼンを求めたのである。

地方自治体の担当部局は殆どが「教育委員会」の担当者である。「特色ある歴史文化財の整備と活用の事業の認可」を求めて、大きな期待を背負ってやってきた人たちでもある。
公開での「コンペ」が文化庁内で企画されたのは、その認可に対して「政治的」圧力を排除し、もちろん「公平、公正」であること、そして文化庁自身、全く目立たない部局の自己アピールもあったはずだ。

  復元整備された山城跡の館建物

地域の緊急の課題と強い規制(文化財保護法)

背景には、新たな「地域資産」として地方が自ら所有する歴史文化財に目を向けたことによるものである。
バブル崩壊後の最もその影響を受けた地方にあって、地域振興は最も緊急の課題であり、地域と地域住民の理解が得られる地域活性化策が「地域の特徴的な歴史文化財」とその整備事業による「地域振興」だったと記憶している。

有名な観光地になっている歴史文化財は別として、国の指定文化財であってもほとんどが原形も往時の景観も失っているのが実情である。そして、国の規制(文化財保護法)があり、現状の文化財(遺跡)に何か手を加えるような「整備等行為」は文化庁の事前の認可が必要である。壊れた遺構を直すことももちろん、国の補助に頼らない「自前の予算」であってもその規制は同じである。

この当時、地方自治体が活用を目指した文化財はほとんどが「城跡」であるが、失った建造物や城構え(堀や虎口、導入や石垣)を整備復元するのは事前の調査やその検討、そして事業内容を明確化する「計画書」の作成など長期の準備期間が必要だった。

古代の城柵や広大な中世戦国時代の山城跡、堀や石垣に囲まれた近世城郭まで、整備復元など目に見える行為まで行きつくのは行政的に、時間的にも人員においても大変であった。何より、申請すればできるものでなく、それぞれ城跡の状況によって整備内容は異なるものだった。

 文化庁も多くの地方自治体からの歴文化財活用の「許認可」への圧力は理解していたはずである。しかし、一人、二人しかいない担当官が全国を周って審査指導するのは無理な話である。従来のやり方や個別協議では多くの市町村に応えることは不可能に近く、そのことが全国の自治体に向けた史跡等整備「特別事業」認可のための「公開コンペ」になったと思っている。

「企画コンペ」が求めたもの

文化庁が求めたのは、何ら歴史的根拠もない「将来構想図」ではないことは当然である。事業着手に向けての専門委員会等の組織化と人選、忠実な整備行為に向けての事前の埋蔵遺構等の調査及び調査計画、そして事業を進めるための行政内部の体制づくりは可能かなどが主な判断の視点である。公募に応募した地方自治体の担当者がプレゼンする文化財特有の事業工程と、将来的な文化財保護のための施策や活動を審査したものと思っている。

最初の年に公募した地方は約十自治体だったと記憶している。すべての応募企画が「城跡の整備活用」だったと思う。
私も、山陰の小さな町の職員と一緒に「小さな町には巨大すぎる山城跡」の企画案をもってそのコンペの場にいた。ただ、私達は事前に「整備計画」を策定していて、準備は万端だったし、何より、単身で乗り込んで来た町の職員は、地方の役所の人間には珍しく、いい意味で「平気で人前で噓を付ける」大変貴重な人材だった。私が造った「整備基本計画概要版」を手に人前でプレゼンすることを、愉しそうでもあったし、その結果も採択もされたのだ。

 後日談

 当時、文化庁が指導する史跡整備活用の事業の枠組みなど具体的に何もない時期である。相対的な史跡整備の範囲も手順も決まっている事もなく、各々城跡の状況によって整備の課題と事業規模を文化庁の担当官とひざ詰めで決めているような時期である。

そこに「特別」という従来の整備事業に付け加え、事業予算の相当の拡大も認めるような期待もある。しかし、独自の事業案でプレゼンをしろと言われる自治体職員はたまったものではない。何より行政の仕事の中で、事業獲得の競争をすることも、人前で(国の偉い役人)自らの事業の魅力を発信する行為など地方の役人には経験もないはずだ。それも「企画する」ことが最も縁遠い行政の文化行政や教育委員会組織に課したのも何か頷けないものがあった。そして、コンペに参加した職員はほとんどが、まだ若い役人だったが、彼らに責任を押し付けるのも可愛そうな気がしたりもした。


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