東京都内のある地域に、石造りの住居群があることを知っていますか。東京都(教育委員会)が何ら報告書も出していないので知らない人が多いと思いますが、石遣いの住宅が普及した地域があります。
それは、伊豆七島の新島です。明治以後の一時期ですが、短期間のうちに普及改良し、「あっという間に」衰退し石遣いと石造建造物の「歴史」を持っています。日本では大変珍しい例です。
おもしろいのは「石遣い」が日本的な思考から始まり、石材の特性を活かした西洋風に進展する様が興味深いのです。耐久性があり加工性の富んだ石材があれば、日本国内でも「木の文化に代わるものがあるか」を住民レベルで実験しているようなものです。そして、「どうして文化や技術は衰退するか」を検証するような結果と経過があります。私が特に印象的だったのは、簡単に「文化は衰退する」とのことです。それは世界史上で沢山、どこでも見られることです。
(何処かで詳しく報告したいのですが、私は古い人間でお金もないのでネガや実測図をデジタル化がわかりません。よってここでは画像や実測図を載せることができません)
私は私立大学では建築学部を卒業した人間です。
やっとの思いで、4年間で無事大学を卒業して建築設計事務所に就職したのですが、一年も持たずに辞めてしまった人間です。「建築デザイン」には向かなかったのかもしれません。その後、色々な企画、コンサル会社を経て、大学時代から興味を持っていた「文化財修理」に向かいました。幸いに、コンサル会社で「材料力学」を学んだこと「土と土木構造」を専門家に学ぶ機会に恵まれたことがその後の史跡等歴史文化財の修理修復にどんなに役に立ったかわかりません。
「時代の背景⁉」
80年代の初めころだったと憶えています。 最初に文化財の修理に向かい合ったのは、古墳時代の墳丘と横穴式石室の修理修復です。特に横穴式石室(持ち送り式石室)の石造構造物に向かい、往時の技術に感嘆したものです。
私は趣旨一貫して「昔の構法」で修理を行いました。「昔の人ができて、私にできないことはない」と、少し思い上がっていたかもしれませんが、当時、石室の修理などコンクリートやモルタルなど近代の工材が平気で使われていた時代です。
城跡の整備等事業に向き合ったのは、長野市にある松代城跡の「基本計画書」の策定がきっかけです。
大きく破損した城跡の整備については、国庫補助事業として「計画的で継続的な事業化」が求められていたのです。ただ、何の計画もなく石工等職人達に破損した箇所の修理工事を任せるような事業の進め方に、根本的なの改善が求められる時だったのです。国文化庁の指導で「整備基本計画書の策定」が行われ、たまたまその策定を私が担当することになり、その後に多くの城跡の整備公開事業に携わることになった経緯があります。破損と王子の景観を失った城跡を有する地方自治体から整備事業着手のための「基本計画書の策定」の」委託を受けることになったのです。私個人の興味は、特に山城跡の余りの広大さに驚き、伝えられる伝記と今に遺る「あまりに平和的」な景観の違いに、興味を持った記憶があります。
石垣の修復については、古墳時代の横穴式石室の解体修復を経験していることから、それほど大変なこととは思っていませんでした。松代城跡や八王子城の石垣復元から始まり、甲府城跡、松山城跡、仙台城、そして松江城跡の高石垣の修復を担当することになったのです。
私の自慢話ですが、石垣修復工事で二十メートル内外の高石垣を従来の構法で修復したもので、いまだに変形もその後に起こった大きな地震にも破損したものはないはずです。
「危険なモノ」を公園に造れない…
城石垣構造の意図と往時の人達の考え方や施工方法を追求し、路端の石積との違いを深く考える契機になったのは、甲府城跡の高石垣の修復工事の時のことです。県の都市公園整備事業として補助事業の相手が国交省であり、発注先が県の土木事務所だったからです。「可能な限り往時の構法」での修復と景観の再現を謳っていますが「安全性」は説明責任があり、また優先することです。
当たり前のことです。多くの人達が集まる市街地の大きな都市公園に、文化財遺産だからと言って危険な構造的を国の予算で造れる訳がありません。文化庁の補助事業のケースのように文化財指定を受けていることが「除外事項」として何ら土木構造物の安全性の検討も説明も求められないのとは違うのです。
「高石垣」は別物だと私は思っています。例えば二、三メートル規模の石垣施工を誰も問題にしません。どんな人が施工しても文句を言う人もいませんが、高石垣施工については、構造的にも材料的にも職人の質についても相当の精査が必要になります。土木事務所からはその安全性と構造の検討、その解析は可能か、工事費の積算とその根拠等、専門職の技術者と何度も話し合いを行ったものです。
最大の議論となったは、実際の安全性と解析不能でも安全等処置は可能か、施工について職人の質をどの様に担保するかなどです。一方で、現存する多くの高石垣が「なぜ四百年以上も保っている!」について議題にしたはずです。
また、国交省での大規模で、特異な都市整備工事なので、専門分野に詳しい「会計検査員」が必ず検査対象とするはずです。彼ら検査官に説明が出来なければ、整備事業もその継続も成り立ちません。それを県の土木事務所は、一番恐れていたはずです。
私は今、石垣修復の現場を離れています。
昨今の緊急することは、修理復元した「城石垣」が最もその価値とする緊張感も力強も、その構造の安全性さえも失っていることに、関係者は気が付いているはずです。
文化庁が認め「専門委員会」が城石垣修復のための「マニュアル」が、その大きな要因になっていることです。表面的な修理ばかりに気を取られた情けない「マニュアル」が、城石垣の価値も構造的な安定も、そして石垣に向かい合う職人の質向上を損なう結果になっているのだ。
熊本大地震で無残な石垣崩壊は、その構造的課題を見失った結果である。「マニュアル」の表面的な真似事や形式化した修復は、将来的に文化的価値を失う結果になることは明らかです。
私が、それに反発したのは、もう何年も昔のことです。
最初に書いたように、文化やそれに伴う伝統や技術は簡単に衰退してしまうのが歴史の常です。まして現状の城石垣修理の「マニュアル」のように表面的な物まねと形骸化した行いはより一層、文化を衰退させる結果になるのは明らかです。「世界に類例がない!」歴史を語る文化財であることを忘れてはならない。
コメント