私の「始まり!」(職人!コンサル?)

私が城跡の保存や整備活用事業に拘わるようになったのは、ある地方都市に所在する城郭祉の「整備基本計画書の策定」を担当したことから始まっている。  

その城跡はまるで運動公園の中に本丸を囲う石垣の一部のみが残っている程度の国指定史跡だったが、何を優先する整備事項かを短期的、長期的に計画書を策定するものだった。ただ、国、文化庁が指導した最初の城跡等整備事業化のための「基本計画書策定」であったはずだ。

「僕の机の前に立った、君が初めての民間人だ」

 その人は日本の文化財保護行政の「天皇」と言われた人で、まだ20代後半で、緊張していいた私に表情も変えず言った言葉だ。 四十年以上も前の文化庁の一室での出来事だった。
その人は表情を全く表に現さない人で、当時文化財保護行政の中心にいる史跡担当主任でもあり、「文化財保護法」の生みの親ともいわれ、史跡等記念物の現状変更(調査から修理、整備)の許認可を一手に引き受けていた人でもあった。
一風変わった人で、地方視察の時も各駅停車しか乗らない人でもあり、地方視察の折、駅で待ち受ける地方の役人が困惑している処を何回か見ている。
民間人の私が、そんなに敷居の高いところに何故行ったかといえば、国指定の城跡関連の文化財の仕事に出会ったとき、ある地方の担当者から勧められたことだった。

 そんな偉い人との面会は、城跡整備等事業についてのことであり、「今後も(城跡整備を)続ける気があるか?」と問われ、「はい!」と応えたことだけ覚えている。時間として十五分も無かったような気がしている。
その人物が、現今の城郭等歴史文化財の整備活用等事業の道筋を作った人でもあった。

 歴史文化財の活用による地域活性化

 当時、地方自治体が所有する歴史文化財の活用による地域活性化の機運は、従来の保護一辺倒の文化庁の指導を見直さざるを得なくなっていた実情がある。
特に各地に所在する大きく原型をとどめない城跡について、史実に基づいた復元等整備公開により地域活性化の目玉にしようとする動きは全国各地で見られるようになっていた。
ただ問題は、城として重要な門構えや堀、建造物を失っているのはもちろん、石垣が破損しているものなど様々であり、各々状況が異なるものだった。整備に必要な歴史資料の精査も埋蔵等遺構お調査も充分で無いこともほとんどである。

それ以前の歴史資料を無視した「天守閣復元」だったり、門櫓建造物を安直に復元することではなく、歴史遺産の保護とその特徴を捉えた整備を計画的に事業化することが求められる時だった。
城跡の保存、整備活用には、地方自治体が十分な審議の中で「計画書」としてまとめて事前に提出することを義務付けたのは当然のことである。

事業化のための基本計画の策定

 全国の地方自治体が自ら所在する城跡の整備活用事業を進めたいと思っても、国指定文化財の城跡については、国、文化庁のその整備等計画内容の認可が必要である。
 認可を受けるためには、城跡の保存や整備公開の基本的方向性を示した「基本計画書」が事前に必要であり、城跡の破損等の現状を踏まえた短期、長期の整備等計画書をもって対文化庁との協議で事業の認可を受けることになる。
 史跡等歴史遺産の整備のための「基本計画策定」と言っても、都市整備で云う「計画策定」とは意味も内容も違うものだった。

 計画策定での基本は歴史があり、その恒久的な保存保護が前提にある。現状を評価し、優先する事業が調査か修理、整備活用かを企画検討しなければならなかった。目標を明確にし、事業工程と予算を決める「基本整備計画書」が求められたのです。

 城跡整備事業への挑戦

 私が城跡整備事業にかかわるようになったのは、結局、全国的に最初の城跡の「整備基本計画」を作ったことが始まりだった。80年代のことです。
 その後、その噂を聞いた市町村からの依頼も、それ以上に多かったのは独自に地方自治体が作った「整備基本計画書」が文化庁の事業審査に了解が得られず、新たに頼んでくるケースがあったからだ。

 私は、計画書を作るだけの「コンサル」になる気など全くなかった。何より事業化の中で、当時の遺跡の修理や復元に携わりたかっただけである。そして、最初から建造物等の復元には興味はなかったし、城跡の特徴的な景観の再現に興味があり、城石垣の修理や復元には挑戦してみたかったのが正直な気持ちだった。

 私が最初に興味をひかれたのは城石垣の歴史とその変遷でした。「基本計画策定」の時、現存する石垣について「整備等検討委員会」に、時期の変遷を持っていることと、いつの時代を整備の対象にするかの問題を指摘したことがあります。

結果的に言えば、私が最初の「城跡整備基本計画書の策定」がそれ以後の城跡整備等事業の設計コンサルに向かうことになり、そして、設計ばかりでなく、石垣修理の現場に立ち会う結果になったことは事実です。石積の様式に時代差があるのは分かっても、伝統も技術も、そして技術者もなくなったところでの、往時の人達が成し得たことに、多くの興味を持ったことは確かです。

                       続くー

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