随分以前の話だが、久々に見た日本映画で感動したことがあった。「周平好き」の自分として、作者の作品が映画化された時代劇でのことです。日本映画では珍しい緊張感のある画面作りに感動したのです。映画に素人の私が感心したのは、画面に映る備品からセットまで時代を推察した「再現しようとする心意気」に対する感動だったと記憶している。
具体的には庭先の井戸屋形の「復元」に感心し、ほんの一カットに出る食事の時に使われた素朴だが力強い陶磁器の選択に、監督やスタッフの映像づくりにかける情熱や気合に感動したのだ。
しかし、連作の様に造られた「周平もの」の次の映画は、余りに情けなく「時代の研修」が間違いだらけで、見るに堪えないものであった。 同じ監督の作品と伝えられているが、私は信じていない。「時代や時期」研修することは、一見地味のようにも思えるが、映像や景観づくりに大変重要なことである。
「復元」する城石垣でも、最も重要なことは時期、時代を間違えないことであると思っている。城石垣の石組や石垣の構造は時代や時期によって異なるものであり、それを下すかにする行為は多くの来訪者や何らより予備知識を持たない子供たちに誤った印象を与えるものである。
間違いだらけの時代時期!
地方の役所で城石垣破損の協議の後、あまり期待しないような態度で「この石垣はいつの時代のものですか」と聞かれたことが何度もある。
記録が明確なものはいざ知らず、ほとんどの目の前にある城石垣の築造年代が不明なものが多い。積石が古いものでも改修修理などで積み直されていることが多く、管理する地方自治体の職員には知りたいところである。城跡のパンフや解説板には、そのほとんどが築造初期のものとして扱われているからだ。
例えば、全国の城郭祉を解説した有名な大系本の写真掲載の石垣の中に、明かに時代を間違えているものがあり、「築造初期」と謳われている石垣写真の中に昭和初期以後のものでるも載っていた。積石は古いものだが、石組や積み方から昭和初期以後のものであることは明らかだった。
それほど、石垣の築造時代を判断することは難しい事でもある。よく間違える事例は、戦国末期の石積初期の荒々しい石積と明治以降の役割を失った石組みに誤りがある。特に大正から昭和の初めに、城郭遺跡が見直された時期のいい加減な修理に時代を間違えるものが多くあります。
石垣修理復元での想い
なぜ、時代を厳密化するかは、時代時期によって石垣にもその特徴があります。積み方も石使いも、人が変われば人相が変る様にその構造も様相も変化するのです。一番違うと思うのは、時代によって受ける印象です。
明確に指摘できる様式はないが、見た目でその時代を誰にでも判断し、また感じとれるものと思われます。その変化を私が言葉で表すなら、初期の石積は「勢い!」があり戦国末期のそれは「緊張感!」であり江戸時代は「確信!」です。しかし太平の世になる江戸初期には「規格化と表面的な志向」になってしまうように私は見えている。どんな革新的なモノ造りでも、困難を乗り越えて目指すものを作ろうとする人たちと、環境も整い道具も進化した中で相対すれば、規格化や表面的な趣向に向かうのは当たり前だ。ただ、規格化されたものが本来の強度を持っているかは別物である。
城跡の石垣修理を担当するようになって、何か自分の中で不足する思いがあった。「何時の時代?」を修理復元しているのか、との体の底から湧き出るような不安だった。石垣の石使いの様相で築造時期が見えるようになってきたとき、真実とはいかないまでも、確信するような「時代」を明確にできる「石垣石積」を見てみたいとの思いが強くなった。特に戦国時代末期の「緊張感のある」時期をそのまま遺す「城石垣」を何時も探していたような気がする。
韓国で観た「戦国末期の石垣」
時代的な特徴を正確に知るためには、当時の石垣が、「そのまま!」残っている石垣を見るしかない。私が思い出したように韓国国内に文禄、慶長年間に秀吉が朝鮮出兵で築いた城跡が遺っていることに気付いたのは、ずいぶん時間がたってからだ。 90年代の中ごろ、一人でその「石垣」を見に行って感動したことを憶えている。
韓国では「和城」と呼ばれ忌み嫌われている歴史の残骸である。誰も見る人も居ない処に、林に囲まれ、幾分裏込めが流失して石垣が変形しても、両行に往時の構造を遺していることに驚いたものである。何より印象深かったのは、私が思っていた以上に文禄年間の早い時期に城石垣の構築方法が完成していたと思われることだ。
伝えられるように、織田信長が「城壁」として石垣を意図した時期から、十年二十年で高石垣築造まで進化していることだ。そして、気が付いたことは、全国の諸大名への技術の交流がこんな形で成されたのかもしれないと。
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