日本では古代から、構造物の隠れた存在だった「石使い」が中世戦国時代に突如として城造りの中心的な構造物として、前面に押し出してくる。
不思議に、主義主張の強いその構造物は、従来より使い慣れた技術であるかのように、ごく短期的に技術の進展を成し遂げ、急速な広がりを全国の築城で見せることになる。まるで、各地に「石使い」の技術者を隠していたかのように、短期間のうちに技術的に完成させる進歩を見せる。
理解できない現象である。路端の土留め積石や宅地の石積は日常的にみられても、「城石垣」は全く違う規模のモノであり、構造的にも異なるものなのだ。
一部の専門家は、近江の「穴太」の石工が全国の城石垣の築造を差配したという人がいるが、そこには誤解があると思っている。石垣築造にかかわる組織化や多くの人員の配置、そして大掛かりな共同作業を、ほんの一地域の職人が差配できるものではないし、何より現存する石垣に私は地方の特色があると見ている。例えば東北有名な城跡の石垣を見た時、涙を流すような感動に覚えたことがあった。その石垣の表情は、東北人らしい優しい石使いの貌があった。近江の現存する石垣のように画一的なものでは無かったことを記憶している。
「日本的」な美意識!
自己顕示欲のひときわ際立った戦国大名の意図があるのだろうが、そこには隠れた日本的な美意識もある。日本的な感覚なのか、その時代特有の美意識の意図かは分からないが、ただの直線的な城壁でなく、均一でもない城石垣を造り上げているから不思議なのだ。
先にも触れたが、石垣勾配に複雑な曲率を設けることにより、ただ、防御的な効果より、景観に美的効果を持たせている。
人が日常目にする光景の中に調和と文化的な感性を求めた結果なのだろうと思っている。
石垣の種別
城郭石垣の分類には、従来、その様式として野面積(ノズラヅミ)打込接(ウチコミハギ)切込接(キリコミハギ)と分ける方法がある。しかしその分類の方法は、ただ表面的な積石の仕様の分類であり、積石の加工程度の差による分類と言える。江戸時代の有名な軍学者が名付けた積石分類であるが、全く構造を意味する言葉ではない。
石積の進展としては、初期的に積石材として「自然に近い転石」を野面積としたのは仕方がなく、防御的な意味での石垣勾配を急にするために「割石材」を用いた打込接、最後に加工機材が進展した「切石」での積石を切込接とした分類である。
それは石垣築造の発展過程を見れば必然である。目的は堅固な城壁を造ることであるから、野面(転石)ではどうして石同士の接する面が安定しないために勾配を急にすることができない。そのために打込接では石山や土中の石材を一部加工整形することにより石組を造る。積石相互の隙間を少なくする(詰石の充填)ことにより壁面の勾配を急にすることが可能となる。詰石の補充は表面に流れる荷重をうまく伝達するためのものである。
切込接は積み石材の加工技術、道具も含めて進化することより出来上がったものである。石材の合端を完全に塞ぐことで、石垣工場宇賀急角度の施工できることを意味している。
ただ表面的な石材の加工程度の種別による名称も、興味深いのは「積」という言葉と「接(ハギ)」という二種類の言葉を使い分けていることである。江戸時代の軍学者がわざわざ、石積の様式にハギという言葉を加えた意味が不思議でならない。
当時、これらの名称が一般に使われていたかは確かめようもないが、言葉通りに解釈すれば、「ハギ」という言葉は「すり合わせる」ことと、「セル」を指したのかもしれない、と私は思っている。石積にはその石尻を決める重要な構造材に「セリ石」という詰石の名称が残っている。私の経験から言えば、前面の詰石より背後のセリ石の打ち込みがより優先されるもので、石垣の総体的な強度に重要なものである。今の石工職人が最も忘れている石組の作業であり、当時もその作業の関連で残った命名かもしれないと私は思っている。
石垣の強さ
加工技術が進化し加工石材が使えるからと言って、石垣自体の強さが強固になった訳ではない。現存する城石垣を調べるまでもなく、切込接の石垣より打込接の石垣が構造的に圧倒的に現在に維持しているのは明らかである。切石積では唯一、仙台城の本丸石垣が高石垣として遺っているのみで、ほかの切石積はすべて失っている。江戸城(皇居)の天守台石垣のように化粧的な要素が強いものだけである。
不思議に思えるのだが、完成したとも思える「打込接」の技術は、短時間の内に衰退する結果になる。江戸幕府からの築城拡大への強い規制(武家諸法度等)もあるが、元禄の頃などには石積の技術は見る影もない。
どんな時代でも伝統も文化でも、「表面的仕上げ」を気にするようになった時には、本来の技術や伝統は衰退する。石垣築造も同じである。
「城造りの名人」とは?
城石垣施工のような大規模な土木工事には、多くの工程を分担する人材と材料、そしてそれらを統括する人間が必要である。絶対的な信頼とモノ造りの経験が求められるものである。
材料の調達、運搬、加工と石垣施工のための仮設、準備段取り、組織的な人員が直接、間接に人員配置と何より職能としての人材の見極めが必要である。
私から見れば、その時代多くの困難を要したのは「材料の搬出と運搬、そして施工行為」だろう。木材と違い重量のある石材や資材を運搬するのである。統制の取れた集団の行動とそれを指揮する絶対的な能力が必要だ。労働力を集めるにしても「鋤や鍬は持参」でも、仮住まいと賄いを用意しなければならない。マネジャーであり、プロデューサーでありデレクターをする人間が必要である。
「城造りの名人」と伝えられる人間が、職人でなく統括指揮する「藤堂高虎」や「加藤清正」の戦国大名であることがそれを物語るようにも見える。
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