「石工」という職能を本当に理解しているだろうか。
同じ伝統技術として「大工」と呼ばれる人達と、その伝統も社会的な認知も大きな違いがあることを知っているだろうか。
現在「石工」という呼び名は残っていても、職能としての資格も技量も、はるか昔に失っている。何ら明確な資格や判断基準がある訳でもなく、名前だけが残っている職能であることを。「石工」という職人の呼び名は、石材を加工する職人も、墓石を組み立てる人間も「石工」であり、極端には昨日まで土工でも自ら「石工」と名乗れば、何ら問題もない職能なのである。
一方、木工を扱う職能には、一般の呼び名として「大工」と社寺建築を扱う「宮大工」という職能が社会的に認識されている。「棟梁」という呼び名さえ一般の人達に認知され,技術の詳細は解らなくとも、その地位も雇う金額さえ異なることが社会的に認知されている。伝統も技術も、人柄さえ「活きた言葉」として社会で尊重されているのである。
石工には、その技術に社会的な認知もなく、その伝統もその技術も失っているのが現状である。まして石積(伝統的な石積)など、構造的に理解している職人も居なくなってしまっているのが現状である。
私は、地方の石垣修理の現場で「日本一の石工!」と称する人間を何回紹介されたかわからない経験がある。
城跡保存整備等事業
城跡など指定文化財のほとんどが、国文化庁が管轄し、地方自治体が直接管理している。文化庁は文化財保護法での強い規制でその保存保護を行っている。破損崩壊等に伴う石垣保存修理、修復等整備事業はすべて、国文化庁の認可、指導を受け地方自治体が国庫補助事業として、主管、発注するようになるのが普通である。地方自治体は計画を作成し、実施に伴う「設計書」を策定し、施工は一般建設事業者が請負、石工等職人を使って行うのが普通である。
また、事業実施に当たって、第三者機関として「専門等委員会」を組織し、各種専門家の指導や協議を受け事業推進することが一般的である。
専門家がいない…
歴史文化財である城郭石垣修理には、多くの問題や課題がある。城郭石垣等の保存修理等事業に担当する文化庁の専門調査官に工事の経験者や施工現場の経験者がいないのだ。工事の何たるかを分かっていないのです(一方、国宝等建造物については文化庁の専門官は殆どが施工現場の経験者である)
地方自治体も同じであり、施工や工事管理など経験したこともない教育委員会が担当している例が多く、工事の発注は出来ても、工事の内容をチェックするような管理を出来る組織ではない。
事業の適正な運営のための第三者機関、専門家や有識者を集めた「専門検討委員会」を組織するのだが、そこにも問題がある。任命される「有識者」も歴史系や人文系が多く、石垣工事のような土木等工事の有識者が居ないのが実情である。「専門委員会」で協議する内容はどうしても、歴史的な関心か表面的な工事内容に終始するのが普通である。
行政内部の建設等事業部が担当する場合であっても、専門委員や有識者の意見が強く、はれ物に触るような扱いをしているのが現状である。
建造物の場合、その修理修復には国文化庁の専門調査官が担当、選任されている。その専門調査官も施工管理や修復現場の経験者であり、また施工も修復等経験者であるために伝統的技術を守っている。大きく違うのが、その木工技術者、大工等技術者は経験者である。
城石垣修理でも、競争入札で請負う建設会社も石垣修理などほとんどが初めてのケースであり、工事内容は石工等職人に任せきりになる。その「石工職人」にしても伝統的な技術を失い、城石垣の特異な構造への理解の不足と、プロ意識の欠如している。職能を全く無視するような「積石を厳密に元の位置に戻す」ような、馬鹿げたことを行っているのが現状である。
プロ意識としての問題
「プロとは何か」と問われることがしばしばある。近年では自らを「プロ」と語る人が多くの職種でみられるし、職能の専門性やその伝統を語る人もいる。私の経験からは、職人が物語を語るようになったら、抽象的な観念論を話をするようになったら「職人ではない!」と思っている。
目先の技術や芸事をそれなりに成し遂げることは、誰にでもできる。それをもって、プロとは言わないと思っている。 職人の器量は「自分の仕事を客観的に観ることができる」の一点で計ることができる。具体的には「やり直し」ができるかである。 どんな熟練であっても、どんな名人でも完成品をいつも造れる訳では無い。客観的な視点で自分の作品、作業を見ることができるかである。不足があるものを、やり直しができるかである。
石垣修復での積石のやり直しは、莫大な金額の損失と周囲への大きな困難と損失をかけることになる。
自らの仕事を見直し、孤立することを恐れない職人を何人かみたことがある。それこそプロである。孤立することをいとわない事こそがプロの資格でもあると私は思っている。
土木工事であること
城石垣の純粋に土木構造物である。構造物であるから、構法的な仕組みがあり、それに基づいた構法がある。
まね事で再現できるわけがない事は明らかだ。
何を遺すかを考えてほしい。我々が今から四百年以上前に造られた城石垣の前で感動するのは、表面的な「積み石模様」ではない。石垣全体の一体性であり、石垣総体の「緊張感」であり、そして日本特有の美に対する感覚であると思っている。
城石垣の独特の構造的な美しさを失くしたら、文化財としての価値を失うだけでなく、構造的な維持も、そして人命さえ危険に陥れるものであることを確認して欲しい。
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