往時の遺構はもとより、縄張りの景観さえ失った城跡の再生には、多くの困難な道のりを超えなければならなかった。国等の指定文化財であれば、事前の調整と発掘調査等準備行為、国担当との数多くの協議が必要になる。なにより、従来の保守的な「保護」を優先する人達からの反目に対抗しなければならなかった。
そういう意味で、文化財整備と公開の新たな「道」を切り拓いたのは、若くてポジティブな地方自治体の職員でもあった。
80年代後半から始まった地域の文化財整備事業の担い手は、結果的に役所の慣例に縛られない地方自治体の若い職員である。従来の文化財の関係者の考え方は、そのほとんどが「保護」であり「整備活用」など反対の立場であった。地方やその住民が求めた「分かり易い文化財整備事業」の突端を切り拓いたのは、強固な意志とチャレンジ精神を持った個人(職員)であったと記憶している。
「史跡整備」への行政的な手順
全国の指定文化財の整備等事業は、国文化庁へ申請を出せば認可されるものではなく、事業着手への方法も手段も定まっていなかった。各々、国等上部機関の担当官と膝詰めで整備等内容とその事業着手に取り組む方法しかないのである。
普段の役所業務には、全く経験も無いことである。前例にとらわれない新たな思考を持った職員の登場が必要だったのだ。
面白いのは、その職員はほとんど行政的ではない個性とポジティブの精神の持ち主でもあり、そして独特のキャラクターを持った人であった。役所には、まして教育委員会組織の職員には大変珍しい人材になる。
「上部機関の指導、助言」と言っても、誰もその道筋を説明してくれる訳では無い。直接住民に接する機会が少ない「県の担当官」の指導はほとんど「出来ない!止めろ」と否定的なことばかりであった。突発的な災害や地震などの被害など特別な場合を除いて、地方自治体においては事業着手までが行政行為は未知の領域だったはずである。
記憶に残る印象的な職員
私は、地方自治体からの「整備等計画策定」委託の契約が成り立つ以前の状況から相談相手のような立場で、地方職員への事業コンサルのような仕事から始まるのが多かった。また、地方の職員とのほとんど偶然のような出会いから始まるケースがほとんどだった。
印象的な出会いは、山陰の交通機関も困難な城跡(山城)を訪れたとき、観光に来ている数人に親切に解説していた地元の職員が、不思議そうに私に尋ねて来たのが始まりだった。
山陰の小さな町に、その町の規模には似つかわしくない巨大で、良好な遺構を遺す有名な山城跡がる。山に囲まれた集落の向こうに、ひときわ高い頂を持つ山頂がその本丸跡である。山形はすべて緑に覆われているが、広大な縄張りや城構を遺す有名な中世戦国期の山城跡である。
彼(町の教育委員会の職員)との出会から、彼の強い要望で山城跡の整備事業着手に向けて手伝いすることになった。小さな役所が出せるコンサル料などたかが知れているが、それでも、その職員の独特の熱意に押され「整備基本計画書」や上部機関との協議のための資料の作成を手伝ったりした。私の関心は、山中に遺る当時の曲輪等痕跡の探索であり、丸二日かけて彼と山中を歩き回ったりした。
彼は「どうしても国の補助を受けて、住民に新たな城跡の景観を見せたい」と言っていたのを憶えている。彼には、地方の役人には無い独特の明るいキャラクターがあり、役人以前に住民であることが行動原理のようだった。
そんなキャラクターが、魑魅魍魎の文化財政策の中で、いかんなく発揮された、最も印象的に残ったことがある。
国文化庁の担当官との協議の時である。彼は地方の役人とは思えない派手な服装で単身、史跡担当の主任に会いに来て、彼独特の笑いを誘うような、それでも粘り強い会話で地域での貴重な文化財の整備活用事業の必要性を説いたのだ。日頃「言葉を発しない、笑わない」で有名な文化庁の史跡担当の主任も「君ねぇ、今の状況ではだめだ。〇〇が足りないし、〇〇も不足している∸‐‐」とあきれたように指摘するのである。それでも町の担当者は「住民が∸‐‐」食い下がる姿に、ついに見たこともない笑顔の文化庁の担当主任がいた。普通ではありえない光景だし、ありえない協議内容だった。
当たり前だが、仕事は人と人のぶつかり合いだ。
その後のことが彼らしい言動だった。打合せが終わり、廊下に退出すると同席した県の役人は「だから無理だと言ったのに!」と言い放ち、さっさと去っていった。
しかし、彼は私に満面の笑顔で「やったね!」と確認するように言った。彼は「ダメなところを直せばいいんですよね」と。住民のことを優先に考えればの彼の感想だが「地方の役人」はそうでなくてはいけないと私は思ったりした。
ただ彼のように、役人らしからぬ「貴重な」人材は、晴れて整備事業の着手後に封建的な役所や地域行政に蔓延(はびこ)る「先生たち」から疎まれ、彼自身に事業着手が悲劇になるような結果になったことが悔やまれてならない。
ひたむきで、脇目も振らない∸‐‐。
もう一人の印象深い役人は、まだ、役所に入ったばかりの若い職員だった。長野県のある市の教育委員会の職員で、彼との出会いは突然の来訪だったと記憶している。彼の目的は市が所在する往時の景観を失った城跡の整備事業着手だった。彼の単独にも思える行動は上司の理解もあるだろうが、彼のひたむきで細部にも聞き逃さないような注意深い姿勢は、誰にも好感を持たれるものだった。
市役所内部でも、史跡の整備行為自体に反対する意見も多くあった時代である。関係各課への粘り強い説得と、自ら率先する行動力と単独でも国文化庁へ調整行動する業務への向き合い方は、誰もが感心するものだった。
彼の仕事に向かう姿勢として、記憶に残る印象的なことがあった。 地方自治体の職員が最も緊張する国担当調査官との打ち合わせの時のことである。約束の三十分間の協議を終え、外に出た彼は、思追い詰めたように「担当官の言ったことで、もう一度確認したいことがある」ともう一度、庁内に戻っていったのである。国の役人と協議するなど、年に一度あるか無いかの世界であり、地方の役人にとっては、はるかに敷居の高い処でもある。それでも、自らの納得して無いことに正直であろうとする彼の姿は、感嘆せざるを得なかった。
彼の担当した城跡整備活用事業は、全国でも先駆的で画期的な整備事例になったはずである。国が初めて認可した「建造物復元」の先例になっている。
彼を見て思ったことは、優秀な一人の人材が役所に(民間企業でも同じと思うが)居れば、行政の在り方を見直し、住民の生活文化の向上に繋がるような大きな貢献ができることを示している。
そのほかにも、たくさんの印象深い人たちに私は出会っている。
まだ住民理解や地域活性の言葉もないような時代に、東北の城柵遺跡で、その分かりづらい遺跡の案内を自ら八ミリフイルムをもって住民に説明して回った人や、上部機関からは、その行政手手続きに非難される地方自治体の一職員が、地域の伝統工具や民芸品をひたすら調査し、記録して住民と協働で保護活動に率先している人も居た。
その他に「復元」という言葉さえなかった遺跡整備の時代に、地域の子供たちに体験させたいと、古墳の横穴式石室や古代の住居跡の遺構を忠実に再現しようとした市の職員もいた。
先駆的に地域に貢献した役所の職員が、名誉を得たり、組織の中で地位を得た人がほとんどいないのが不思議である。ほんの一例を除いて、多くの職員は、組織の中で孤立し、心身ともに身の置き所が無くなっているのが現実である。
私事だが、この仕事を始めたばかりの若い時「国の偉い人」から雑談として聞かれたことがある。 史跡整備を続けていくことで「どこかの先生か専門官に、なる気があるか?」と問われ私は「なる気はありません!」と応えると、「それなら、ひたすら脇目も振らず突っ走れ」と励まされたことがある。笑いながら、彼は付け加えて「フロンテアは二番目に行く奴がなるから大丈夫だ!」と。慰めとも激賞とも思えない言葉で励ましてくれたことを覚えている。
まだ、80年代の文化財整備等関連の仕事を始まる時である。
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