「誓約書にサインを頂けますか」
ある大手ゼネコンの本社の役員室で執行取締役から私に向けて投げかけられた言葉だった。私が設計監督する城跡整備工事で、急斜面に従来の構法での石垣復元を譲らない私に対する、その工事を受注した施工会社(ゼネコン)側の応えだった。
ゼネコン側では、その施行の安全性に責任が持てないことと、仮に復元した石垣が崩壊した場合、その責任を負いかねることから出てきた「私が全責任を持ちます」という誓約書のサインだった。
私が躊躇することなくサインしたのは勿論である。私は復元する石垣を壊すことも、壊れることも考えた事も無かったし、復元する石垣に自信を持っていたからだ。それは、古墳の横穴式石室修復で培った「土」の施工に対する絶対的な理解からだ。
私が最初に城石垣修復を担当したのは80年代のことだ。
史跡八王子城跡の御主殿跡に通ずる往時の「通路の復元」を通して城構えの景観を整備公開することを目的にした「史跡環境整備工事」で、石垣の復元はその一環だった。
その整備工事の中に、谷川を渡る大きな木橋(曳橋)の再現工事とそれを支える橋台石垣工事が山麓の急斜面に復元することが問題になったのである。
橋台石積は、石垣築造が初期の中世戦国末期であり、発掘調査で検出したように、自然石に近い玉石材での復元することだった。
最初に見た時の感動を整備目標に
八王子城跡は中世戦国時代末期、豊臣の北条氏征伐に対抗するために造られた後北条方の広大な山城跡である。正直、巨大すぎてどこまで縄張りか、今でも正確に把握されていないはずだ。城跡は城山の山頂を本丸として、その中腹に御主殿跡や家臣屋敷を構える縄張りである。特徴的には、縄張内に河川(谷川)を配置し、大手(追手)はその対岸から斜面を這うような導入路が延々とあり、その導入路から見る要害の景観は、この築城の大きな意図を伺えるものである。
八王子城跡との出会いから印象的だった。八王子市が城跡の整備公開のために、その中核遺構、御主殿跡の周辺の発掘調査をしているときに調査担当者に呼ばれて訪ねる機会からである。丁度、御主殿に登る石階段の調査が行われている処で、私はあまりの石造りの階段の見事さに感動したのを今でも憶えている。
市の担当者に、私が最初に言ったことは「対岸から橋を渡して、昔のようにこの階段を正面から見せよう!」と言ったことを覚えている。
その石階段は対岸の導入路から曳橋で御主殿に入るために設けられたものである。山中に城を構えた人物の発想と、そこに展開される景観を象徴する様な構造物である。環境整備工事の目的は、その意図を来訪する人達に実感体感して欲しくて、倒木だらけの対岸の急斜面を整備して橋台を復元して木橋を渡り、その見事な自然石で造られた石階段を正面から見せたいことに重点を置いた整備内容だった。
「設計」が作れない、工事ができない!
整備工事は設計書の作成も整備等工事の実施も大変だった。
計画は大手から斜面地に往時の通路を整備することと、御主殿後にわたる谷川に約三十メートルの「曳橋」を木造で再現することと、斜面にその痕跡を残す引橋を支える橋台石垣を再現することが主題だった。
当時、野外に大規模な木製の橋を造るなんて誰も相手にしてくれなかった時代である。大手の木材メーカーからも製材メーカーもすぐにその申し出を断られた。一方、僕自身は諦める気など全く無く、全国の中小の製材メーカーを丹念にあたり、ようやく野外での木工工事を挑戦する業者に巡り合った次第だった。
何より大変だったのは、木橋を支える橋台石垣の設計であり、施工実施だった。一般に工事の設計をする場合、専門業者に見積もりを採るか、材料費から施工の人工数(歩掛)を積み上げて設計費を算出するのが普通です。
しかし、当時(今も変わって無いと思うが)文化財の城石垣の修復を担当するような職人も専門の会社もなく、他の城跡の石垣修復の作業現場を見ても、とても職人とは思えない「オジサン、オバサン」がバールを持って積み直しているような状況であった。設計書の作成は自ら材料を調査し、施工費は昔の資料や仕方書(単位当たりの作業日数、歩掛)を調べ、農業土木仕様の積み石工事などを参考に設計書を作成した経緯がある。施工は、それこそ大変な思いをした。
今だから話せること
現今の土木工事における法律「土木施工安全基準法」では、従来の石垣施工(空石積)の5メートル以上は認められていない。しかし、歴史文化財修復は適用除外規定があり、その範疇以外である。橋台石垣規模は、積石石材が自然石に近い不定形のもので6メートル以上、それも急傾斜地に積み上げるなど、施工請負業者が石垣施工を渋るのは当然のことだった。
何より問題は、積石を施工する職人を探すことだった。
受注したゼネコンが連れてくる積石職人が話にならなかった。一応、そのゼネコンは文化財の修復では一番の経験もある会社だが、連れてくる石工の施工が話にならないのだ。後から気が付いたことだが「手が違う」のだ。加工石の石積はできても自然石に近い積石など扱ったことがない人達だったのだ。 結局、何回かの職人の交換をする中で行き着いた「手」は庭師(庭石や)だった。
私は八王子城の整備の前に石組工事の経験が無かったわけではない。
遺跡内容は違うが、九州や山陰の古墳の主体部である横穴式石室(持ち送り式石室の構造)の修復を幾つか経験(城石垣と構造形式は全くの逆構造)をしているし、古墳築造の驚愕するような土の締固めの技術も体験、再現している。石橋の修復をも経験する中で、「石組」の構築には自信を持っていた。その間に城郭跡の城石垣についても、全国を見て回り、時代的な変遷や構造的な改変が戦国時代の短期間の中で実施されていることも理解していた。
「当時の人が出来て我々が出来ないわけがない!」と僕は思っていた。
八王子城の環境整備事業後に私に向けられた批判や一部の賛同がある。
その中でも、最も多い意見は木造での曳橋について「野外では管理が大変じゃないのか」という意見だった。「擬木(セメント製)でも」という人は多かったが、それを最初に考えるヒトには、会話する必要もないと思っていた。「遠くから見たら、石垣など昔の構法かどうかなんて—-」という人もいたが、それこそ「モノづくり」も歴史や伝統も分からないヒトだと思っていた。
私は史跡文化財の整備公開こそ「誰のための事業化か」を忘れてはいけないと思っている。来訪する人や何の知識もなく訪れるような子供たちが、見て、そして手に触って「がっかりするようなもの」を使ってはいけ無いことだと思っていた。そのための「木製の野外の橋」であり、往時の構法を踏襲した石垣復元だと思っていた。
コメント